業界人曰く「100均」、消費者曰く「100円ショップ」。日本で知らない人のいないこのタイプの店は、もはや生活にかかせない。
1.進学や転勤で新しい場所に引っ越す時、引っ越し荷物に生活小物を入れる人は少数派。
2.引っ越し荷物の量を増やして費用を増やすくらいならば、引っ越し先の100円ショップで買った方が遥かに経済的。
これ、ニホンノジョウシキですね
しかし、その源流は百貨店にあることは意外と知られてないのではないでしょうか。
今は地方では閉店が相次ぎ、大都市でも決して楽な商売ではない百貨店ですが、
それまで「ツケ」で「値引き」しながらするのが当たり前であった買い物を、
1683年に「現金払い」「正価販売」を始めたのが越後屋呉服店、三越の前身(写真1)です。
これは当時として画期的であり、今でいうところのHonest Retailerのはしりになります。さらに1900年には全フロアを販売エリアとし、1904年には「デパートメントストア宣言」を発し、その七年後の1914年には日本橋三越の原型であるルネッサンス式五階建て店舗(写真2)やエスカレータを設置しました。
これらを行った経営者日比翁助(写真3)は日本の百貨店の祖と呼ばれ、百貨店は近代における流通業のイノベーターでした。
100円ショップの原型(早すぎた原型かもしれない)は、1926年の高島屋長堀店に設置した「高島屋10銭ストア」です。この名称は米国の「10セントストア」からとったといわれていますが、見事な語呂合わせですね。ちなみに高島屋は「20銭ストア」「5銭銭ストア」なども展開していました。
今でいうならば、アパレルのPALが経営している「3COINS」と発想は同じですね。
もっとも、百貨店による低価格均一業態は、1937年の百貨店法による規制で別会社化され、太平洋戦争の波の中で廃業においこまれていくのですが。
そして再びこの業態が登場するのが1960年代、スーパーストア、スーパーマーケットが空いている玄関付近や通路付近の場所を行商業者に貸して売上歩合をとる「催事業者」としてでした。当時の催事は店長など店舗運営者の自由裁量で行うことができたため、催事業者も店舗が自由に選べました。
店側は場所を指定するだけで特段のセッティングをする必要がなく、日商の20~30%を得られる催事は旨みのある商売でした。
一方、催事業者としても廉価な生活雑貨のような定番商品に加え、製造元がキャッシュフローを得るために投げ売りした商品や中には倒産放出品(いわゆるバッタもん)を自由に仕入れて売ることができるため、粗利益率は50%以上と格段に高かった。また、売上管理が厳しくないため、売上金の一部を「抜く」ということも常識であり、貸し手であるスーパーと借り手である催事業者にとってはwin-winであった。
こうした催事による行商的な販売を固定店舗で行ったのが、1985年のライフである。
※大手スーパーマーケットのライフコーポレーションとは無関係
とはいえ、まだ100円ショップを行う催事業者は信用が低かったため、常設店舗を与えられることは殆どありませんでしたが、大創産業が納入業者に品質を求め、スーパーの信頼を得て常設店舗を開いた最初の100円ショップとなりました。
なお、「大創産業 夜逃げ」で検索すると創業者矢野氏の波乱万丈な人生を知ることができるので、お時間のある時に検索を。
円高とバブル崩壊後の低価格志向から雨後のタケノコのように乱立した100円ショップでしたが、現在は図表1のようにほぼ上位四社に収斂しています。この要因としては、商品調達ルートによる部分が大きいと思います。
海外(特に近年は中国)からの低コストでの調達に優れていることに加え、例えば最大手のダイソーはLEC(旧・スルガ)という生活必需品製造企業と強いパイプを持ってプラスティック成形品等だけではなく、コスメなどの領域にも拡張をはかっています(LECはライオンの福島工場を買収しており、そこでは殺虫剤のバルサンを製造していたほか、医薬品と化粧品の製造免許も持っています)。
また、二位のセリアは100円ショップで初めてPOSによる在庫管理と需要予測を行った企業である。これは現社長の河合氏がPCやPCソフト、またアルゴリズムの開発を得意とする人物であり、大垣共立銀行勤務時代に彼が開発したアルゴリズムによる与信システムが伝統的な与信システムよりも貸し倒れが少なかったという技術を持っていたことから始まっています。
業界の中で一番に品質と商品開発に力を入れたダイソーと、初めてPOSによる在庫管理と需要予測を行ったセリアが一位、二位であるのは偶然ではないところが、100円ショップの面白いところである。
なお、余談ですが、中小企業が多いことが日本の100円ショップを支えていることも興味深いことかなと思います。和歌山に海南市という都市があるが、タワシの原料であるシュロの木を弘法大師空海が唐から持ち帰ったことで、タワシの一大産地になったといいます。やがてタワシがプラスティック製品に置き換わっていくのですが、それでも海南市にはプラスティックや布や金属加工による生活必需品の工場が多く立ち並び、100円ショップの商材の一大生産地となりました。
米国の「ダラージェネラル」や「99セントストア」には日本の100円ショップにあるようなアイディア商品がほとんどないのは、アイディアをすぐに製品に変えられる小回りの利く中小企業の存在と言えるのではないかと思います。
こんな感じでとりとめもなく100均について考察してみましたが、如何だったでしょうか。
今後も他愛もない雑学をまとめていければと思います。
それではまた~
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